霧島商工会議所bcpセミナーと桜島視察

投稿日:

作成者:

10/12は 鹿児島県霧島商工会議所でBCPセミナーの講師として、お招きいただいた。

伊丹空港から鹿児島空港→バスで国分駅に着いたら、トヨタの高級車セルシオとご担当の松元様が

送迎にお見えでした。 思わぬVIP待遇に驚きと感謝でございました。

bcpセミナーには、意識の高い方がお越しになられておりました。

皆様が真剣にお聞きになられました。

その日は、京セラホテルに宿泊し、翌日はレンタカーで桜島視察を行いました。

↑霧島市から鹿児島市に向かう途中の桜島の風景

↑仙巌園に行って、島津光久の別邸。中を見学。千姫のドラマ撮影地でもある。

↑池の中の八角形は中国の八卦から来たもので中国文化が島津藩に入ってきていた。

派手さはなく、随所に細やかさがありますが全体的にはシンプルな邸宅であり、決して贅沢なつくりでは無いあたりが島津流なのかも。

庭の景色は抜群です。

 

↑鹿児島と桜島の間は約4.8km フェリーで13分で向こう岸に渡れます。

24時間フェリーが往復する。4M~5Mの車両長で1480円 人だけなら150円 通勤通学にも使われています。

島の各集落には避難港が整備され、 非常時にはフェリーで 避難する体制が整っています。

近年は幸いにして噴火時の避難目的として使われたことはありませんが、

平成5年の集中豪雨の際は鹿児島市竜ヶ水地区に孤立した住民を救出するために出動したり、

毎年1月に行われる島内避難訓練では実際に避難港へ出向くなどの活躍が見られるようです。

↑湯之平展望所からの風景。運転に注意しないとカーブで火山灰で横滑りしそうです。

昭和火口はこのま反対なので白く噴煙が見えます。

桜島は

人口:約5000人

周囲:約55km

標高:北岳・標高1,117m,中岳・標高1,060m,南岳・標高1,040m

↑近づけば近づくほど灰が増えます。

↑赤水展望広場には、火山岩で作った叫びの肖像モニュメント

2004年8月、長渕剛のオールナイトコンサートが赤水町採石場跡地で開催され、7万5000人の観客で盛り上がった。それを記念して建てられたモニュメント。

↑赤水展望広場。ここらあたりでも、まともに目があけられないくらいの灰が降っています。

↑桜島の一番南側の展望所「有村溶岩展望所」

他の見学観光客も多くいらっしゃった。

↑距離感が無いから大きさが分かりにくいが、この奇怪な岩で頭の部分が1m位はあるだろう。

他にも多くの溶岩があります。

黒神埋没鳥居は大正3年(1914年)1月12日の大爆発で埋もれてしましました。

この時の大噴火で、島だった桜島が溶岩で海がうまり陸地とつながり、今は、車で行きき出来るようになっています。

昭和火口が一番よく見えるポイントまで行きました。ここは駐車場はありません。

↑鹿児島気象台のページより抜粋

昨年 2011年は、過去最高の噴火回数です。東北の地震と無関係ではなさそうですね。一日に何度も 1000メートルくらい吹き上がるそうです。

気象台は、爆発回数もカウントしており、昨年は996回も爆発していたようです。

江戸時代 安永の噴火 233年前

1779年11月7日(安永8年9月29日)の夕方から地震が頻発し、
翌11月8日(10月1日)の朝から井戸水が沸き立ったり海面が変色
するなどの異変が観察された。正午頃には南岳山頂付近で白煙が
目撃されている。昼過ぎに桜島南部から大噴火が始まり、その直後
に桜島北東部からも噴火が始まった。夕方には南側火口付近から
火砕流が流れ下った。夕方から翌朝にかけて大量の軽石や火山灰を
噴出し、江戸や長崎でも降灰があった。11月9日(10月2日)には北岳
の北東部山腹および南岳の南側山腹から溶岩の流出が始まり、
翌11月10日(10月3日)には海岸に達した(安永溶岩)。翌年1780年
8月6日(安永9年7月6日)には桜島北東海上で海底噴火が発生、
続いて1781年4月11日(安永10年3月18日)にもほぼ同じ場所で海底
噴火およびそれに伴う津波が発生し被害が報告されている。一連の
海底火山活動によって桜島北東海上に燃島、硫黄島、猪ノ子島など
6つの火山島が形成され安永諸島と名付けられた。島々のうちいくつ
かは間もなく水没したが、最も大きい燃島(現・新島)には1800年
(寛政12年)から人が住むようになった。噴火後に鹿児島湾北部沿岸
の海水面が1.5 – 1.8メートル上昇したという記録があり、噴火に伴う
地盤の沈降が起きたと考えられている。一連の火山活動による噴出
物量は溶岩が約1.7立方キロメートル、軽石が約0.4立方キロメートル
にのぼった。薩摩藩の報告によると死者153名、農業被害は石高換算
で合計2万3千石以上になった。

 

安永4年(1775)10月4日、大地震により、道後温泉の湧出止まる。

安永7年(1778)1月7日~8日、80年来の地震、13度揺れる。愛媛県今治市

 

 

大正時代 対象の噴火

噴火の経過 [編集]
1914年(大正3年)1月12日午前10時5分、桜島西側中腹から黒い噴煙が上がり、
その約5分後、大音響と共に大噴火が始まった。約10分後には桜島南東側中腹
からも噴火が始まった。間もなく噴煙は上空3,000m以上に達し、岩石が高さ
約1,000mまで吹き上げられた。午後になると噴煙は上空10,000m以上に達し
桜島全体が黒雲に覆われた。大音響や空振を伴い断続的に爆発が繰り返された。
午後6時30分には噴火に伴うマグニチュード7.1の強い地震(桜島地震)が発生し、
対岸の鹿児島市内でも石垣や家屋が倒壊するなどの被害があった。

1月13日午前1時頃、爆発はピークに達した。噴出した高温の火山弾によって
島内各所で火災が発生し、大量の軽石が島内及び海上に降下し、大量の火
山灰が風下の大隅半島などに降り積もった。午後5時40分に噴火口から火焔
が上っている様子が観察され、午後8時14分には火口から火柱が立ち火砕流
が発生し、桜島西北部にあった小池、赤生原、武の各集落がこの火砕流に
よって全焼した。午後8時30分に火口から溶岩が流出していることが確認さ
れた。桜島南東側の火口からも溶岩が流出した。

1月15日、赤水と横山の集落が桜島西側を流下した溶岩に覆われた。
この溶岩流は1月16日には海岸に達し、1月18日には当時海上にあった烏島
が溶岩に包囲された。一方、桜島南東側の火口から流下した溶岩も海岸に達し、
噴火前には72mもの深さがあった瀬戸海峡も埋め立てられていった。こうして
1月29日、桜島が大隅半島と陸続きになった。このとき瀬戸海峡付近の海水温
は49℃に達した。溶岩の進行は2月上旬に停止したが、2月中旬には桜島東側
の鍋山付近に新たな火口が形成され溶岩が流出した。1915年(大正4年)3月、
有村付近に達した溶岩の末端部において二次溶岩の流出があった。

噴火活動は1916年(大正5年)にほぼ終息した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E5%B3%B6

より一部抜粋させて頂いた。

 

海底噴火のリスクもあり、津波対策も必要である。